現在、色々なアイデアが思い浮かんで
様々な企画を練っています。
地域の生きもの調査を行い、みんなで環境を保全して行くという計画の
那須野が原生きものネットワークプロジェクト
水辺のビオトープを造成してエコレンジャーを実施することはもちろん、
・(仮)森のようちえん(名前をどうしよう…)
・田畑の週末農園(妄想中)
・ロケットストーブ銭湯(妄想中)
・大量消費のイメージ戦略から抜け出すために、根源的な、もっとローカルな音を楽しみ、みんなで踊り狂うというデスコ
・エネルギーを自給すること
(ペレットストーブで地産地消をおこなうこと)
(ロケットストーブの仕組みづくり)
・自分たちで家をつくること(家の概念を変える)
環境保全を地域の人たちが主体的になって行うことが前提です。
なぜ、環境保全を、それもわざわざ地域の人たちが中心になって行わなければならないのか?
地域の自然の現状を変えていくには、もはや行政の力や企業の力だけではどうしようもない。
自分たちの地域は自分たちで守る!
そうした意識付けが大切だ!!とそのためには自らの手で手入れを行う仕組みが必要だ!
そうした活動はその意味が一番強いと思っていました。
しかし、それだけでないことに気がつきました。
自然と関わり、その中にいるだけで動物として癒され、また感性が研ぎすまされることもありますし、
自分自身の生活自体を考える場でもあるのではないか?と気がついたのです。
もともと里山とは、人が生きて行くために、原生林を切り開き、都合の良い様々な樹木を植えて雑木林をつくり、田畑を作りました。
自分たちの生活の量を把握し、それに必要な分だけの自然資源を使い生きて来たのです。
そこには自分が生きて行くための具体的な仕事という行為と、森や田畑、池などの空間が対象としてありました。何のために自分たちがその行為するのかが把握できていたといことです。
現在の我々はどうでしょうか?
直接、森や田畑などと関わりを持つ機会がなくなりました。
具体的に自分たちの生活の「量」を把握しなくても
全てが「お金を稼ぐため」に変換することで済んでしまいます。
そこで自分たちが行う仕事は、「何のため」というものが抜け落ち、
いっぺんに「お金のため」と言う具合に抽象化されてしまうのです。
つまり具体的に生活すること、もっと極端にいうと「生きる」ってことも
モヤモヤしたものになってしまっているような気もします。
自分たち自身で具体的な生活や行為に落とし込まれないでいるのです。
そこには生活する舞台となる空間も存在しません。
自分たちの生活する地域の森や田畑がどうなろうとも無関心でいられるのも
もしかしたら自分の身になって具体的に実感できないからではないか?
そう思うのです。
具体的な生活に必要な量を把握することによって、行為が見え、そこで展開する空間が見えてくるのではないか?
そのためにも根源的なもの、本物に触れて、感じること実感を取り戻すことが必要なのではないか?
すべて加工されたものが陳列された状況のなかで、生々しいものにダイレクトに触れるということで、そこから「生きる」ための段取りを考えるキッカケを作りたい。
単に環境保全をやりたいというだけでなく、社会の仕組みを考え作り直したい、そして本来の人間性を取り戻し、心穏やかに豊かに過ごしたい自分自身のためにも…
一見支離滅裂な企画を考えているようですがやっています♪