最近、このブログの傾向が、ちょっと政治色が強くなっていることが心配なのですが、
生きもののことを考えるってことは、自分の生活を考えることという認識の元、
思考の場として、自分たちが生きる舞台としての生態系を考えて行きたいのです。
ということで…
自然エネルギーで本当に今までの生活を賄えるか?
という問いに対し、自分はハッキリ言ってそんな期待はしていない。
というよりも、そこに希望を感じていない。
自分が問題にしていることは、エネルギー云々という狭い範囲の話ではなく、
今までの生活の在り様を考え直したい。
ギスギスした社会、個人がさらに個人になって孤独になっていく状況、
そんな
自分が生きにくいと感じた環境を、もう少しまともにしたい。
そう思い、それはモノで満たされることだけでは実現できない。
逆に、モノで溢れ過ぎてしまっていることで手が届かなくなってしまい失ったものもある。
僕は、先日の「さよなら原発10万人集会」に参加をしたのですが、
その時に広瀬隆さんという方が演説をされた。
「もうすでに自動車会社が効率の良いエンジン発電機を開発し、それで電気は賄えるんです」というような話をしていて、また、鎌田慧さんに誘われてここに立っているとも言っていたことが少し気になっていた。
そういえば彼の本を購入し、読みかけていたことを思い出し、確かにそんなことは書いてあったが深くは読み込んでいなかった。
あらためて読み返してみると、目から鱗でした。
適当な自然エネルギー推進は、原発推進の片棒を担ぐ…
一見、相反する二つの内容で、
なぜ、坂本龍一氏や飯田てつなり氏が一部で叩く輩がいるのか?
僕にはよく分からなかったのですが、
簡単に言うと、漠然と代替エネルギーとして期待している
太陽光発電、風力発電、地熱発電そして、ダムが必要な水力発電
それを含めて20%を占めるようなエネルギー政策を打ち出しているようなのですが、
その路線でいけば、導入までに原発を容認しなければならないということなのだ。
日本で使われているエネルギーで、どの分野が一番使用しているのか?
一般市民の生活分野での使用割合なんて、微々たるものであり、
そこを真面目に節約したとしても、産業分野で湯水のように使っていたら何にもならない…そんなことも言っている。
産業界が天候などに左右されるエネルギーに頼って操業するワケにはいかないのだ。
僕は先日の集会で皆が口々に
「原発なんか無くったって自然エネルギーでやっていけるんだょ〜!」
という叫びに、正直、違和感を持っていた。
おぃおぃ、この原発を生み出してしまったマインドセットのまま、今までの生活を続けて行こうって言うのかよ?という気持ちだけがあった。
しかし、今回、広瀬さんの本を読み返し、
あらためて脱原発を訴え自然エネルギーを推進し健気に節約に励む一般市民が、結果的に原発の延命に加担してしまっている状況に危惧していることを知った。
坂本龍一さんが、どの辺まで分かって「たかが電気」と言っているのかワカラナイし、
それを批判するつもりは全くないけど、純粋にロマンティックな太陽光や風力というダイレクトな見えるカタチの自然エネルギーばかりを唱えるのは危険というか、罠ですらあるのかもしれないと思ったわけです。
僕としては最初にあげた自分の問題。
生きづらい環境を、すこしでも生きやすくしたい、それにはお任せして生活する事ではダメで、自分たち自身が生活を考えて関係性を作り直し、それぞれが持っている役割を生きる技術として磨き、その地域、コミュニティで貢献しながら生きて行くという、とりあえずの答えにたどり着き、それを「生態系」というメタファー(暗喩)によって実証実験を試みている。
ガス・コンバインドサイクルという発電機を数台並べ小さな発電所を作れば、原発一基分の電力100万キロワットという電気が賄われてしまうという状態らしいのですが、
(因に太陽光発電で同じような電力を賄うには山手線一周の面積の太陽光パネルを敷き詰めた面積が必要だとか)
あ、これでいいの?
これで問題解決なの?
ではないですよね?
ここで初めて、問題の本質が見えてくる訳で…
ここから考えよう。自分たちのくらしを!
エネルギーが足りるからと言って、このまま続けますか?
ん?!何が問題なの?って思っていますか?
自分の周りや足元、生きもののことをよく見てみて!
やはりビオトープの活動の意義と役割がここででてくると実感。