電気自動車も、原発依存型でも行けるし、
新しい社会エネルギーインフラとして送電網の一部として
同時並行で行われるということに気づく
だから自動車会社は原発を推進しているというよりも、したたかに容認している。
そういう話をある方とし、そして気がつく。
「自然エネルギーですべて賄えるんだよぉ〜」
という7.16の10万人集会のフライングダッチマンの叫びが頭の中でこだます。
自分の中で何か違和感を感じる。
確かに、自分たちでエネルギーを賄っていることになるのだろう…か
そしてエネルギーの独立を果たして行けているのだろう…か
しかし、それで自分が生きにくいと感じた社会は、生きやすくなるのだろうか?
大量生産、大量消費、大量廃棄といった傾向は、
大企業の打ち出す、リサイクルシステムによってモノの循環はするようになるかもしれない。
革新的な技術開発によって、今までの構造を維持しながら、
モノに不自由することなく便利で快適な生活ができるかもしれない…
そのままで行ければ…
でも、相変わらず、生活は大きいところに任せて、貨幣や紙幣に依存し、
コントロールされて、人との関係が希薄なままの状況は一緒なのではないだろうか?
地元の環境に目を向けず、知らない間に人間の視点のまま開発が行われ、
景気に左右されるような保全のあり方で良いのだろうか?
もう一度、せめて自分自身で生活を取り戻す選択肢があってもいいのではないか?
たしかにその辺はバランスよく、ひとつに絞り込まずにやればいいと思う。
そして、エネルギーシフトを行ったところで、この社会構造が変わるものではないんだな…と思ってしまったのである。
当初、原発爆発以前にマインド自体を何とかしなければならない…
そう思い活動していた時に戻っただけだと思った。
そのつもりでやればいい。